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「第二十四回:skin」

海の部屋_第二十四回_掲載写真

母親がヌード写真集を出す夢をみた朝、
なんとも言えない気持ちになって誰もいない部屋にちゃんと「いってきます」と言った。

隣の玄関の傘が四本に増えている。
そういえば最後に傘を捨てたのはいつだっただろうか。人生の中で傘を買うことと傘を捨てることの帳尻が合っているとは到底思えないのだけれど。
そんなことを考えながら買ったばかりの折り畳み傘を取ろうともう一度鍵を開けた。


その日は朝から大金を下ろし、コンビニで年金を前納した。
「バンドマンも年金払うんだね」と皮肉を言った友達の顔が浮かび、「そうね、バンドマンも国民だからね」と顔色ひとつ変えずに言い返せなかったことが今でも恥ずかしくなる。
だって私は何も恥ずかしいことをしていないのだから。

税金や年金、保険料などこの国で人間らしく生きるだけでたくさんのお金がかかっていると知ってからようやく本当の意味で大人になった気がしている。大人、というかもっと「社会の一員」という感じだろうか。
どれだけ身軽な心を持ってしてもお金を払って生かしてもらっているという事実が身体中に張り付いて浮ついた私の足をどうにか地につけようとするのだ。
「この雲を掴めさえすれば、もう少しだけ」そんなことを思いながら領収書をもらった。
そして近々ニ年になる部屋の更新費のことは一旦忘れよう、そう思った。



私の生活はどこをどう切り取っても決して芸術的なんかではない。
汗や頭皮の生々しい匂い、何も隠さない私の匂いを纏った日々が指の間を髪の毛と一緒にするりと過ぎてゆく。そして排水溝に溜まった髪の毛と一緒に自分自身で捨てるのだ。


時々何もなく平和で穏やかな日常が過ぎることが怖くなる。それは私にとって未来を失っている事に等しいと気づいた時からだろう。
けれど遠い国では今も、そんな平和ボケした哲学に浸ってられないようなことが起きている。
以前付き合っていた「平和だね」が口癖の彼は今でも同じような毎日が淡々と過ぎることを「平和だね」と言っているのだろうか。その背中を少しだけ思い出してやめた。
私はというと(私自身だけの話で言えば)、文字通り恐ろしいくらい「平和」な毎日を過ごしている。


幼い頃、と言っても中学生か高校生の頃だろうか、私はずっと自分が幸せであるという事実を受け入れられずにいた。「厨二病」なんて言葉で表してしまえばそれまでなのだけれど、自分が主人公の世界で特筆すべき負の事情がないことを恥じていたし、根拠もなく塞ぎ込み、無意味な程に伏し目がちであった。
お腹いっぱいになること、友達と笑い合うこと、恋をすること、それらはまだよかった。けれど家族に愛されていることをどうしても受け止められなかったのだ。
うちはというと、決して裕福ではないし父こそ居なかったものの核家族ではなく、いつ帰っても誰かが「おかえり」と待っていてくれるような家庭だった。
それは時が経って家族の人数や経済状況など、あらゆるものが変化した今でも揺るぎないものだ。
そんな幸せが受け入れられなかったのは、私自身が何よりもそのことを「幸せ」だと思っていたからだろう、多感で揺れ動く自分とは対照的に揺るぎない場所があることを、そこで安らぐ自分を心から恥じていたし、何より怒っていた。


けれど人が一人生きていくことの大変さを知った今だからか、違う人間が家族として(時に理不尽とも言えるような不利益を被りながらも)集団で暮らしていくこと、当たり前のように支え合っていくことの難しさ、もっと簡単に言えば凄さみたいなものを肌で感じている。
あの幸せは当たり前ではなかった、家にいる大人たちみんなの努力によって守られたものだったのだ。



遠くの国で戦争が起きている、隣の駅で誰かが傷ついている、歴史的な大虐殺は既に起きているし、明日解雇されるサラリーマンがいる。
これは紛れもない事実である。

だとしても一生懸命今を生きる私の幸せや平和を恥じることはない。そう思っていたい。
明日戦争が起きるなら、私の頑張って払った年金はどうなるのだろう?
そんなことを考えたっていいし、何もなく平和で穏やかな日常が過ぎることを怖がったっていい。

決して自分だけが幸せならいいと言いたい訳ではないし、ふてぶてしく感じるかもかもしれないけれど、私たちはたとえ現状維持だとしてももう十分頑張っているのだ。そしてもう十分に傷ついている。それを批判する権利は誰にもない、それが自分自身であっても。


海 (2022.08.09更新)




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