泣けるモノ収集シンドローム

手紙を読んだ。当たり前だけど嬉しい。

僕が特定の誰かじゃなくて、物事の流れに対してただピーピー愚痴ってるってことを「分かってますよ」って優しく書いてくれた人がいた。嬉しいよ。助かるしさ。

小っっっさぁぁぁあな人間の疑問や報告を綴っているだけだからね。笑

過去に特定の誰かを攻撃したってのは、こないだの秋山さんの写メに応戦したって話くらいさ。少なくともこのブログでは。攻撃的にもなるけど誰かは攻撃しないよ。

その言葉を頂いた上で今日も日記を書くね。ありがとう。

 

ストレス社会だ。

いきなりな話だけどさ。笑

よく、思うんだ。世の中が何をそんなに泣きたがっているのかが不思議だから。音楽においても激しくそうだけど、いろんな文化、メディアがそのように見えるよ。

そうなった背景にある理由は、もちろん酷い経済や、ただそれを「酷い経済」としか言えなくて傍観者となりつつある僕のような人間のせいかもしんない。

昔がどうだったかは知らない。懐古的に生きたって、春が来る前にマッチ売りの少女に成り果てちまうしさ。

ましてや、こうやってPCの前に居れる僕たちは恵まれてるんだよね。それを「感謝しろ」と押し付けられるのは真っ平御免だけど、少なからず公園のテントよりは暖かい場所に居るんだ。

 

でも、「アレ足りない、ソレ足りない」が僕らには続く。「いや、全てに満足してるよ」という人は素敵だと思う。ただ僕は人間だから答えの出ない問題や、理不尽についてなんとなく考えるよ。人によってはそれさえ「人間だから」という答えにしてしまおうという、生に対して盲目な楽観主義者もいるけど、そんなの答えになっちゃいない。投げやりだし、「そうだね、それで?」と訊いちまう。

なんだか、社会の中にいてもなお孤独を感じてしまうし、集団の中だからこそ、自分がどんどん縮こまってゆくと感じる時もある。

だからって人の力を借りて泣きたかない。世の中は「泣ける」モノを買う。泣きたいから買うのであって、自然と感動してこぼれる涙とはハナからブランドが違う。それを買えるだけの経済もある。しかも、案外買う時までハッピーだったりする。

別に恋人と別れたわけでもないけど「君とは会わないよ~♪(適当ね笑)」とかのサビに自分を投影する。

 

そして、何より、何せ、泣く。

涙が欲しいし、涙を排泄したい。そんな風に流れとして見えてしまうんだ。僕の勘違いならいいのだけど、違うようだって。

 

僕が思っていた以上にこの世はナルシストの集まりなんだろうかって、近頃思う。

そこまで自分を見つめていたい人達が増えたのは時代性だからだろうか。この不況下において、鏡が飛ぶように売れている気がする。鏡よカガミぃ。。。

僕自身を言えば、自分が溺れるほど好きだったり笑、同じほどにうんざりな時もあるから、似たもの同志が増えたのかい、とも思う。

でも僕はわざわざ泣きたくない。泣きたいと思って金を払わない。大好きなバンドの大好きな曲を聴いて、凄いぞ凄いぞ!なんて思ってたら「あれ?」ってな感じの涙はわかるよ。それは自然と落ちるもの。自分の背中のレバーが引かれちまった瞬間。

でも、そのレバーを引かれに行く人達の気持ちって、...「たまに」なら、へえ~だけど、「しょっちゅう」なら意味が分からない。

 

何とも言えない気持ちの時、とでも言うのかな。そんな気分になったとき。

極端な行動を取ることで自分がクリアに見えると思っている人もいる。「泣けるモノ収集シンドローム」の人達と近しく映る。

人の存在に「濃ゆい」も「薄い」も無いのだけど、わざわざ自分を「薄く」しようとして、周りからの同情により「濃く」あろうと算段する人だったり。自分を止める誰かを待つことで、あるいは薄くし続けてとんでもなくなった哀れな自分を誰かに見てもらうことを想定して、「ああ、自分は認識されている。」と、ナンセンスな恍惚に浸るサマ。

でも、さっき書いたけど、人の存在に「薄い」も「濃ゆい」も無いんだ。

医学的に本当に病んでいる人達とは違う。

ただ、それを甘っちょろいなんて僕は思わなよ。それも辛いさ。そういう状態はきっと「書かれていない病気」なのだろうと思うんだ。

世間は書いてあることしか許してくれないから、一蹴してくるし、きっと面倒臭がられる。だから理解が得られない。

本に載ってないからって理由で、健康なまんま病み続ける。

 

僕らは「戦争を知らない子供たち」の孫に当たる世代に近い。

ありがたくもこれを読んでくれている貴方や、貴女は、孫でなくても、それでも少し世代がズレる人が多いと思う。1970年の歌だからね。約40年前の歌になる。

何かが足りないんだろうなって思うんだ。僕らは幸い、物があるし、食べていける。休日には日曜雑貨に彩を添えるほどの余裕もある。

ガム買える。噛みながらギター弾ける。

でもどこかがあまりにも欠落しているものだから、頑張って埋めようとするわけさ。まあ、結局簡単には埋まらないんだけどね。

「だから」かな。

 

喋る相手がいないから104に電話して、「自分は社会と繋がれた」とささやかな喜びに浸るのも、

泣きたい曲聴きながら自分をレミゼラブルして、誰も見ることの無い自主映画を心の中で撮るのも、

前者はやっちゃいけないおかしな行動だけど、後者は一見、周りには目にも耳にも普通な話。だけど、心の中での変態度と内容は同等な気がするんだ。

それが蔓延しているのであれば、この多数決社会の日本じゃ、「常人」ってなにをもってなのかさっぱり分からなくなってるなって思う。

 

よくね、確かな何かをつかめたらって...僕は何度も思うけど、それを「空を仰ぐこと」に、よく例えてしまう癖がある。とても幼稚な発想。

灯台もとクラッシャーかもしれないのにね。

でも空を仰いでいたいと思うから、何となくそういう気持ちに近しい曲を書く。

街の空が大きなビルや、電信柱たちで少しずつ縮小化されていくように、僕らの見るものの視野も狭くなって行くような妙な危機感を感じるんだ。これだけの情報社会だけどね。

ほら、僕らが安くなってゆくような、言い知れぬ心地。

 

ああ、少なくとも僕は今、「泣きたい」なんて思わない。そんな場合じゃない。

 

でも昨日、安いドラマで泣いたっけ。

2009年2月17日 17:00 nagasawa tomoyuki コメント(0)