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gian プロジェクト A2R 6/12 00:01
1999年 オーガスタ・キャンプが初めて開催された年のスローガンは「ゴミを出すなよ」だった。
第1回目から参加されている人の中には覚えていらっしゃる方がおられるかも。
当時、僕はエコ雑誌の先駆けであったソトコト(SOTOKOTO)で連載をしていた。環境問題に関する興味は以前からあった。古くは1990年、バービー・ボーイズのベーシストであるエンリケのバンド・ユニットBICYCLEのアルバム「GAIA」をプロデュースした頃からそう言う問題を考えていたのだと思う。このアルバムはタイトルからもわかるように「GAIA=地球に僕たちが何をすべきか」がテーマだった。当時はGAIAと言う単語がまだ広く使われてはいなかった。だが、エンリケは当時から地球環境の問題に強い関心を持っていた。それは森林破壊であったり産業廃棄物問題であったり、そしてすでに地球温暖化を危惧してCO2削減問題なんかも彼は積極的に語っていた。もともとエンリケは水産学部で学んでいた経緯もあり海洋汚染なんかにも詳しかったのだ。
で、このアルバムがリリースされた時、僕はプロモーションでエンリケに自家箸を持つ事を勧めた。アルバムで訴えるだけじゃなく何か実践しようぜってことで。当時としては凄く新しい思いつきだったから取材や打ち合わせの食事の際、エンリケが箸を鞄から取り出す行為を見てちょっと奇異に感じてしまった人も多くいた。もちろん、小さな意識を持つ事が大事だってBICYCLEは歌ってた訳だからその行為に感心してくれる人も幾らかいたけど。バンド名、BICYCLEもエコロジカルな名前にしたいと言うエンリケの発案でした。このGAIAってアルバムは実に奥が深い。もし機会があったら是非聴いてみて欲しい。

で、なんとなく僕もいつもその小さな意識ってのを頭の片隅のどこかにおいて来たつもりです。それはちょっとかっこ良く言ってしまえば音楽で社会貢献できればって意識。だから、第1回目オーキャンのスローガン、2003年のオーキャンのテーマ「SUMMER OF LOVE」、そして元ちとせ X 坂本龍一の「死んだ女の子」プロジェクト、2005年の環境省のバック・アップによるAugusta Camp special in OKINAWA、そしてオーガスタ・コットン・バックの収益を全額寄付してフィリピンに学校を建てた2008年、そんなことが実現出来たのだと思う。

じゃあ、次ぎに何が出来るんだろう??って考えた時、僕は随分無駄にしているものが周りにあるなってことに気づいてしまった。
オーガスタのアーティスト達は仕事柄大量の衣装を購入している。それはツアー用であったり、プロモーション活動に必要なものであったり、取材やテレビ出演目的であったり。なかにはリースやスタイリストが持って来てくれるものもあるけど。で、それらの多くは一度使われるとそのまま倉庫に眠っているか、あるいは終いにはゴミとして消却されてしまうかのいずれである。ゴミを出すなと言っているスローガンに反している。
で、使えるものは再利用してはと言う結論に至った訳です。だから考えた末プロジェクトを立ち上げることにしました。プロジェクト A2R(Augusta Recycle/Reuse〜mudanishinai)。モノを無駄にしないと言う、誰もがすぐにアクションを起こせる「未来の地球のための第1歩」と思って頂けたら嬉しいです。
つきましてはアーティスト達の用途済みの衣装を渋谷にあるROCKER AND HOOKERというセレクト・ショップにて一般の方に販売させて頂こうと思っています。販売価格は仕入れた時の7〜8割減で設定するつもりです。そして売り上げ金額からその商品の販売に関わった手数料を抜いた全額を一般社団法人more Treesに寄付します。more Treesは僕と元ちとせが以前から賛同している機関です。その活動に関する詳細は、WEBなどを見てもらえば、すぐに知ってもらえると思います。オーガスタが提供した、もはや使用しなくなったモノが再利用/再活用され、それが新しい植樹/森林造成などに繋がって行く訳です。今後は衣料品のみならず、雑貨や書籍、CDなど、アーティスト達から提供されたモノを同様に販売して行こうと思っています。
そのためにはルールも必要です。対象商品を購入して頂く際、転売やオークション出品を避けるためにROCKER AND HOOKER店頭にて会員登録していただくことを了解してもらわねばなりません。参加して頂ける方は会員規約書を読んでもらい、誤解無きよう、僕らの主旨を理解して頂きたく思っているからです。

音楽には力があります。
社会に目を向けさせる事だって出来るし、人の心を癒したり、また疲弊している心を救える力もあります。
それを教えてくれたのはボブ・ディランだったりジョン・レノンだったり。
もちろん忌野清志郎もそのひとりです。
聖路加病院の日野原重明先生と仕事を御一緒させて頂いた時、先生は治療として音楽療法を提案されておられました。
もう一度言います。音楽には力があります。

オーガスタは今後もそう言う音楽を発信して行きたいと考えています。

ROCKER AND HOOKER
http://www.rockerandhooker.com/

moreTrees
http://www.more-trees.org/
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gian 忌野清志郎に捧ぐ 5/29 00:39

「お別れは突然やって来て すぐにすんでしまった」(ヒッピーに捧ぐ)

忌野清志郎が亡くなった。
あの盛大な葬儀から3週間。街はまた何事も無かったかのように動き出している。哀しみと寂しさが日ごと増して行く。日々ほとんど毎時間、折につけ彼の事を思い出す。清志郎の無念さを思うと苦しくなる。60歳、70歳、80歳、年を重ねて行く清志郎を見る事ができないと思うと残念でならない。「ロックはこうやればイイんだ」、そう言って彼が道を示してくれるはずだった。ずっとそう思って安心してた。今、僕はそんな道標を失くし途方に暮れている。

初めて清志郎を観たのはまだ彼がデビュー前だった。丁度、40年前。あれからずっと僕は彼に敬意を払って来た。日本語でロック・ミュージックをやる事、聴く事、そして作る事、それを僕に開眼させてくれたのはまだデビュー前のRCサクセションだった。デビュー後、「ぼくの好きな先生」がスマッシュ・ヒットした時の事もよく覚えている。大量に流れたスロー・バラードのラジオ・スポットもよく覚えている。武蔵野美術大学と明治大学和泉校舎の学祭で僕のバンドがRCサクセションのフロント・アクトをやったことも今では誇りに思う。事務所からほされメンバーの脱退、交代が相次ぎ、その活動がアンダー・グラウンドになった頃のライヴ・ハウスでの惨めな清志郎のパフォーマンスを覚えている。でも、僕らには縁があった。大学卒業後、就職したレコード会社で清志郎に再会する。「どん底だよ」って笑ったシャイな笑顔を覚えてる。そして、その日誘われ、後日出向いた屋根裏での新生RCサクセションに僕はなぎ倒されるくらい衝撃を受けた。挫折と絶望の底から音楽シーンをひっくり返そうとしていた彼のSOULを目の当たりに目撃した。それから、だんだん清志郎とは親しくなった。彼のポンコツのサニーで初めて家まで送ってもらった夜、彼がボソっと言った「この車が『雨あがりの夜空』のモデルなんだ」

1979年初頭〜1981年年末まで僕はRCサクセションのディレクターを勤めた。曲作りのコード進行や歌詞の提案なんかして、しょっちゅう清志郎に鬱陶しがられていた。それでも僕は彼等の側にいさせてもらった。あの3年間はもの凄く密度の濃い時間だった。それこそ24時間、どうやっったらRCサクセションが世間に認められるのか、そればっかり考えていた。

やがて忌野清志郎が発明した日本語のロック「RCサクセション」は大ブレイクする。

その後、彼等が移籍することになり僕は清志郎と別れてしまう。

「もしも オイラが偉くなったら 偉くない奴とはつきあいたくない
 たとえそいつが古い友達でも むかし世話になった奴でも つきあいたくない」(つ・き・あ・い・た・い)

移籍する彼に僕は皮肉を言った事がある。この歌を聴いたとき僕に対して歌っているんだなって思った。彼は否定してたけど。

でも、ずっと彼のファンであった事に変わりはなくRCサクセションのコンサート・パンフレットなんかは何度か僕が書かせてもらった。尊敬する清志郎に頼まれ光栄の至りである。その後も僕が担当するアーティストに楽曲を提供してくれたり。その仮歌を入れにひょっこりスタジオに現れたり。そして、またカバーズやザ・タイマーズで仕事をしたり、その後も彼との友人関係は続いた。

僕が音楽の世界にいられたのは彼に育てられたからだと思っている。勿論、彼が能動的、積極的に僕を面倒見てくれた訳ではない。彼はそんなタイプの人間では無いし。僕は清志郎の背中をずっと見ていた。そして清志郎から学んだのだ。それだけ多くのものを彼は僕に与えてくれた。人前で寡黙な彼、その心は実に僕には有弁だった。いつでも僕は彼の側にいたかった。そしていつも彼の前で僕は緊張していたかった。

清志郎が亡くなって10日くらい経ったある日、僕は渋谷のんべい横町にあるMと言う店を20数年振りで訪れた。この店は懐かしい店だ。かつて僕はほとんど毎晩この店で清志郎の素晴らしさを酔いにまかせて説いていた。当時20代だった店主も今は40代後半である。その店主が僕に言った「一度だけ清志郎さんがここに電話して来た事がありましたよね」って。「えっ!!そんなことありましたっけ?」「そう、森川はいますかって。それで電話に出て、しばらく話してたじゃないですか」
僕はすっかりそんな事は忘れていた。なぜ清志郎がのんべい横町のMの電話番号を知っていたのだろう?きっと、僕が教えたんだろうけど。では、彼は何の用件で僕に電話して来たのだろう?僕らはその時いったいどんな話をしたのだろう?

たぶん、人は想い出の中の80パーセントくらいは忘れてしまっている。20パーセントくらいしか実際は覚えて無いのだろう。その20パーセントくらいはとても心に残る重要な事かもしれない。だが、実は忘れてしまっている80パーセントくらいの他愛無ない出来事の数々、これってその間柄に余裕があるゆえの証明なんじゃないかなってと思う。言い換えれば安心感みたいなもの。その何でも無かった膨大な日常の会話やありふれた出来事をあっさり忘れて行く事実、それは無意識な心のゆとりなんだと思う。「細かい事なんかいちいち覚えちゃいねえよ」ってくらい彼と一緒に過ごした時間。これからもずっと続いて行くはずだった彼と僕の気の置けない間柄。互いの信頼関係があったからこそ彼との想い出の80パーセントくらいは忘れてしまってるような気がする。

たとえ離れていても確かに僕らにはそんな絆があった。
だから、葬儀で竹中直人氏が言ったように僕も忌野清志郎の友人であったことを今は世界中に自慢したい気持ちだ。

「君と長い間過ごしたこの人生 80パーセント以上は覚えてないかも でも いいのさ 問題ない 君がいつもそばにいるから 毎日が新しい」(毎日がブランニューデイ)

僕が覚えている清志郎より忘れてしまっている清志郎の方がきっと何倍もある。
かつて清志郎がくれたFAXや手紙、写真や当時のスケジュール帳をいずれゆっくり眺めてその想い出を辿りたいと思う。
今はまだそれらを紐解く勇気(みたいなもの)がちょっと足りない。

死ぬなんて思ってもいなかったから。
どんな逆境の淵にいても、あいつは這い上がって来るヤツだったから。

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gian 2008年 大晦日 12/31 14:05
シャッターが降りた商店街はしんと静まりかえり門松やしめ縄と言った正月の飾り付けが冷気に震えている。今年最後の1日が始まろうとする朝、僕はひとり通りを歩いている。
夏くらいから始めたジョギングを怠っていたのには理由がある。腰を痛めたのだ。年齢を顧みずけっこうな距離を走ったせいだ。シューズが合ってなかったのかも知れない。
で、とにかく1年の締めくくりにウォーキングぐらいはしてみようと思い立った。うーん、でもけっこう腰椎が沁みるように痛い。

走ったり歩いたりするのって健康のためには勿論いい事なんだろうけど、続けてるとちょっと心にも余裕が出て来る。これまで見過ごしていた風景やMONO事の発見なんかあってなかなか新鮮な気持ちになれる。道に迷ったりするのもまた愉し、である。武家屋敷そのままの白壁の塀、その前を駆け抜けるブロンド青年ランナーの存在の違和感。日溜まりで欠伸をする野良猫たちの平和。昭和の名残そのままの路地や生け垣、そして銭湯の暖簾に郷愁の風が吹く。宵の南東の空に輝くシリウスに逝ってしまった友人を思い、小さな公園のジャングル・ジムのてっぺんから遠く雪を頂く富士山に出会い、その景観にいたく感動したりetc。最近、発見したとっておきのものはある民家の玄関口にある岩である。白と灰色のずんぐりした丸い岩、朝の柔らかい陽射しの中で見るとその岩は一瞬セント・バーナード犬と見間違う。でも、朝のある時間帯だけなんだ、セント・バーナード犬に見えるのはね。
同じ街並でも時間帯によってその表情は全く違う。明け方、昼間、夕刻、夜、いろんな顔がある。匂いがある。野原を駆け回り、小川に落ちたり、あぜ道で草笛を吹いた少年のあの日はきっと毎日がそんな発見の連続だったんだと思う。錆びついていかない事、枯れていかない事を改めて思う。だから、走り続けよう。2009年、ここにあるものの再発見と新たな出会いを期待して僕は走る!!(でも実際は腰痛のためトボトボ歩いてると言った方が正しい。まぁ、1歩づつでも前へ)

皆さんにとって2009年が素晴らしい1年になる事を祈ってます!!
いつもありがとう!!

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gian COIL 10th Anniversary 「Vitamin C」本日リリース 10/22 12:44
縁は不思議なものだ。互いがまだ見知らぬ同士のうちからその運命は出会うべく方向を目指し実はゆっくり進んでいるのだから。それでも出会いまでには何度かすれ違いを繰り返したり見過ごしてしまったり、互いが気づかぬところできっと遠回りをしたりしている。でもそんな紆余曲折を経て出会った時、僕らはそれを縁と呼ぶ。

今から、14〜5年ほど前、たぶん山崎まさよしがまだデビュー前の事だ。横浜のLIVE HOUSE 24に出演していた時、山崎はそこのスタッフないしは常連客のいずれかから1本のカセット・テープを受け取った。山崎はそのカセットに入っている音源を聴いた。悪くない、そう思ってそのテープを僕に渡すつもりでいたのだがいつのまにか紛失してしまったようだ。
その頃はまだMD機器が出始めた頃でほとんど僕らが使っていた録音機器や簡易的なオーディオ媒体はまだカセット・テープが主流だった。山崎も山のようにカセットを持っていたからどこかに紛れてしまったのかも知れない。ただ、奇妙な事だが山崎はそのテープのラベルに書かれていた「岡本定義」と言う名前を記憶していた。その音楽が心のどこかに引っ掛かっていたのだろう。

丁度その頃、フリーターで音楽活動をしていた当の本人岡本定義はやっと重い腰を上げた。つまり自分の作品をレコード会社や音楽事務所に持ち込もうと考え始めていた。だが、手立てが無かった。ある日、情報紙「ぴあ」の中にオーディションの文字を見つける。それはあるレコード会社が一般公募したもので審査員には様々な音楽関係者が名を連ねていた。審査員たちは自分の探している音楽を紙面でアピールし応募を募る。アーティスト達は自分の志向している音楽がシンクロする審査員に音源を送る。そんな仕組みのオーディションだった。
で、このオーディションに僕は審査員として参加していた。「天才を求む。オレは相当切れるから自分の音楽に自信のあるヤツだけオレと勝負しろ。」なんかそんな自己紹介文を僕は載っけた。冗談半分、本気半分である。で、「ビートルズには相当うるさい」みたいな補足文も付け足した。

岡本定義は僕にテープを送る準備まではしたが既にそのオーディションの応募は期日を過ぎていた。それに気づき結局あっさりとその応募を断念した。
ちなみに締め切り日が過ぎていたにも拘らず、そこに応募して来たのがスガ シカオだった。このオーディションで僕はスガ シカオと出会い、岡本定義とはまたも出会うチャンスを見逃してしまった。

それから、1年くらい経った頃、僕は杏子の楽曲探しをしていた。当時、バービー・ボーイズ解散後、杏子はワーナーに移籍したばかりでソロ活動をしていた。担当のディレクターO田は大学時代のミュージック・サークル仲間として実は岡本定義の先輩にあたる。O田はその時期、岡本定義に杏子の楽曲依頼している。岡本定義は何曲かO田の元に杏子用の曲を持参したがそれはそのまま放置され僕の手元には届かなかった。なぜならO田は音楽の仕事そっちのけであるマルチ商法に首を突っ込んでいた。哀れな事に岡本定義は曲が採用されるどころか石鹸を買わされるハメになってしまったらしい。
結局、O田が失墜してしまい僕と岡本定義はここでもついぞ出会う事は無かった。

それから4年くらいは何も起こらなかった。岡本定義はそろそろ本気で人生を考えなければならない年齢に差し掛かっていた。彼と運命的にすれ違っていた山崎まさよしやスガ シカオはその4年のうちにデビューしていた。

でも、時は経っても、やっぱり僕たちには縁があったのだ。運命の計り知れない力が潜んでいた。岡本定義がメーカーに送り続けたテープ、それがテイチクの横田ディレクターの目に、耳に留まった。横田はそれまでの経緯を全く知らない。もちろん僕も、杏子も山崎もスガも岡本定義がそんなに僕たちと接点があったなんて、お互いこの時点では知る由もなかった。横田は岡本作品集を導かれるかのようにスガ シカオのラジオ番組に持ち込んだのだ。横田はなんとなくスガ シカオに岡本定義と同じような匂いを感じ取っていたのだと思う。横田は当時スガ シカオのマネージャーだった米納にそのテープを託した、僕に聴いて欲しいと。

1998年、その年のゴールデン・ウィーク、僕は休みを返上して待っていた。それはオーガスタの会議室。つい昨日の出来事のようにその日が甦る。5月とは言え少し肌寒く、曇り空。当時、まだ代官山の裏通りはGWと言えども人影はまばらだった。休日のオーガスタの玄関にチャイムの音が小さく響く。小柄で大人しそうな青年がそこに立っていた。岡本定義である。

その日僕らは随分音楽の話をした。先に手渡されたテープの音源からその歌詞とメロディー、その卓越した秀逸な楽曲群は既に僕の心をとらえていた。
そして岡本定義のサウンド・メイキングをしている相方に佐藤洋介なるパートナーが存在している事をこの日始めて知る。
これらの楽曲はこの二人が細々と手作りのような作業を繰り返し形にしていたのだ。世の中はアナログからデジタルの時代へと移行していた。そんな中、岡本定義と佐藤洋介は真空管のコイル巻きをする職人のようにコツコツと暖かく魂の籠った音楽作りに日夜明け暮れ、励んでいたのだ。僕は岡本定義と佐藤洋介二人あってこそ成立するその音楽をやりたいと思った。ゼロからモノを生み出しサウンドの仕上げであるエンジニアリングに至るまで全てこなしてしまう COILと言う類いまれなる才能を持ったユニットの形。それは出会ったときからずっと一貫している。

あれから10年が経った。だが、たかだか10年である。僕たちが出会った「縁」にはまだまだ意味がある事だと思う。それがなんなのかと訊かれても神のみぞ知るだ。でも少なくとも、音楽を作れってこと、それは間違いない事だと思う。
だから、この先もずっとコイル巻きのような作業を続け、そして作品を生み続けてほしい。
これからも僕を、オーガスタのアーティスト達をCOILを支持してくれる人達みんなを感動させ続けてくれ。

僕たちの出会った答えはきっとその先に、まだまだその先にあると思うから。

追伸:サダ、昨日、大阪でスキマの卓弥に会ったよ。開口一番「Vitamin C最高ですね!! サダさん天才ですよ」って言ってたぜ。
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gian HERE COME THE AUGUSTA CAMP 2008 6/23 17:52

6月初め、強行スケジュールでリバプールに行って来た。目的はTHE LIVERPOOL SOUNDなるイベントを観るためだ。
European Capital Culture 2008('08年度 欧州文化首都) に選ばれたリバプールでは今年、年間を通じて様々なカルチャー・イベントを行っている。
その最大のイベントが6月1日に行われた「THE LIVERPOOL SOUND 」だ。出演はThe Zutons , Kaiserchiefs , そしてPaul McCartney。

リバプールはその昔、アフリカとアメリカを結ぶ三角貿易の拠点として繁栄した。
つまり奴隷貿易の中心港と言う悲惨な歴史を持つ港町である。
その奴隷商人達の時代から100数十年、リバプールはビートルズが出現するまではさびれる一方で、世界はもとよりイギリス国内でも話題になるような地域ではなかったはようだ。
僕もビートルズによってリバプールと言う地名を知ったくらいだ。
たぶん、もともと歴史的な都市であったにせよ、60年代に入るまではさほど文化的な場所では無かったんだろう。

アフリカから奴隷として連れて来られた黒人達、彼等が受けた深い虐待や屈辱の中から生まれたブルース・ミュージック、それがルーツになり今日のR&BやR&R、そしてポップ・ ミュージックは形成された。
かつて彼等を迫害した白人達の子孫はやがてリスペクトの気持ちを抱いて黒人音楽を受け入れる。
その音楽は東京にいた十代の僕にも確実に届いた。長い時間を経て人種や国境って「壁」を音楽が超えたのだ。

で、今回、リバプールでこのイベントに参加した僕はリスナーとして改めて音楽の力を思い知った。
6月1日、リバプール郊外のアンフィールド・スタジアムは世界中から集まって来た老若男女36,000人の観客でひしめき合っていた。
リバプール市民、ヨーロッパ諸国、ロシア、 アメリカ、インド、そしてアラビックの人たちもいた。もちろん日本をはじめ、東洋系の人たちも。
そのほとんどの人が「リバプールでポール・マッカートニーが見たい!」という情熱を抱いてこの場所にやって来たのだ。
当初、セキュリティーやキャパシティの問題で募集した観客は25,000人だった。
だが応募があまりにも膨大な数に達したため、運営委員会はそれらの問題を必死でクリアし、36,000人へとその枠を拡大。
幸運なことに、日本から応募した僕もチケットを手に入れることが出来た。

ビートルズ・ファンにとってリバプールは聖地である。
だから、ポール のライヴをリバプールで観ると言う事はビートルズ・ファンにとっては一大イベントなのだ。
ポールが彼の出身地リバプールをこよなく愛している事はファンの間では周知の事実である。
その場所でどのようなMCをするのか? そして選曲は?
コンサート会場へ向かう観客達は期待に胸を膨らませながらビートルズ・ナンバーを大合唱していた。

僕は前日に知り合ったイタリア青年ミケレとずっとビートルズの話をしていた。
彼はまだ20代だが母親が大のビートルズ・ファン。だから彼は母親のお腹の中にいる時からビートルズ・ナンバーを聴いていたそうだ(笑)
会場ではインドから来たという中年男が僕らに「ビートルズのアルバム SGT PEPPERSのジャケットをデザインしたピーター・ブレイクがあそこに座ってるよ」と教えてくれたり、
はたまたリパプール出身だと言う老婦人は「私はデビュー前のビートルズをキャバーン・クラブで観た。まだ、リンゴ・スターはロリー・ストーム&ハリケーンズに在籍していてビートルズのドラマーはピート・ベストだった」とマニアックだが特別な話を披露してくれたりした。
周囲の人たち全員がビートルズという音楽を介してまるで長い知己のような感じでコンサートの開演を待っていた。

フロント・アクトのズートンズ、カイザー・チーフスが大声援で送り出されたあと観客の興奮はピークに達していた。
ポール・マッカートニーの登場にスタジアムが地鳴りのようにどよめく。
性別、年齢差、人種、宗教、すべてを超えて会場は一体になり全員が彼のナンバーを合唱した。
世界中から時間の都合をつけ、お金を工面してここに集っている人たちがいる。
音楽 と言う力がこの人たちをここへ導いたのだ。音楽によって与えられた感動で僕たちはここにやって来たのだ。そして出逢えたのだ。

ビートルズの、そしてポール・マッカートニーの音楽だけでは餓えている子供達の空腹を満たす事は出来ない、
世界のどこかで今日も続いている戦火を止める事も出来ない。
だが、その音楽が「きっかけ」にはなる。
誰もが愛し合ったり、助け合ったり、笑顔でいられる事がどんなに大切かと言う意識を覚醒させる事はきっと可能だ。
だからこそ、あの時、あの会場にいたすべての人々が心をひとつにして「Give Peace A Chance」を大合唱したんだと思う。

日本に戻った僕は長澤知之と秦基博のライヴを立て続けに観た。
そこには彼等が紡ぎだす素晴らしい音楽と、その音楽に耳を傾けている純粋な観客の、若者達の姿があった。
現代の社会の中で迷い、孤独に押し潰されてしまいそうな魂を長澤や秦の歌が救う事はとても難しい。
だけど少なくとも立ち直る「きっかけ」くらいは作れるかもしれない…。

音楽には力がある。オーガスタのアーティスト達がその音楽で人々に、そして社会に貢献出来たならどんなに素晴らしいだろう。
その音楽が暗中模索している人たちの心の中で小さな光りの点となり、やがてそれが線に繋がってゆく糸口になれたなら、こんな嬉しいことはないだろう。

ビートルズは歌う「受け入れる愛は与える愛に等しい」と。
僕らもまた、オーガスタ の音楽を愛してくれる人たちに同様の愛が返せるように、渾身のパワーを込めて努力すると誓います。

さあ、10年目の夏がやってくる。オーガスタ・キャンプを是非観に来てください!!
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gian ありがとう 3/17 01:14
2008年ももうすでに3月半ば。
年明けからいろんな事が重なりこのダイアリーから遠離っていました。長澤の事は皆さんもご存知だと思います。どんなに口惜しく無念な思いをしたか、この件については彼が新しい作品を発表する時に触れたいと思います。御心配をおかけした事を申し訳なく思います。そして彼を信じて待っていてくれたファンの皆さん本当にありがとう。
そして今日、スガ シカオ・オフィシャル・ファン・クラブの集いに参加していただいたTHE FAN・KEY・TRAINのメンバーの皆さん、どうもありがとう!


さて、今回はオフィス オーガスタ所属ではないアーティストについて書きたいと思います。彼にありがとうを言いたいので。
でも、なんて書いたらいいのかなかなか思い当たらないのでちょっとメールするみたいな感じで書こうかなって思ってます。
よく僕たちはメール交換していましたから。

「現ちゃん、キミが逝ってしまってから1週間が経ったよ。今日、お台場に行って来た。スガ シカオのイベントがあったからね。
楽屋でスタッフの永塚がお葬式の祭壇に飾ってあった現ちゃんの遺影はお台場の近く、東京湾のほとりで撮ったんですよって言うからさ、で、昨日、知り合いがお台場に咲いてる菜の花の写メを送ってくれた事思い出して、永塚とちょっと散歩しねえかって、なんか男二人で春風吹く戸外に出たよ。変だろ?オレと永塚が一緒に散歩するなんてさ(笑)
お台場に菜の花があんなにいっぱいあるとは思わなかったよ。いたるところに菜の花が咲いてた。
現ちゃん、その容貌に似合わないくらい花が好きだったじゃん。西陽の中、永塚とぼんやり座ってその黄色い絨毯みたいな野辺を眺めてた。
春の黄昏時、やけに空が高くてさ。飛行機雲がひとすじ。
なんか不思議な感じがした、この空の下にも、この風の中にも、もうどこを探しても現ちゃんはいないんだなって事が。
なんかいつもバカやってた現ちゃんが消えちゃったのが凄く不思議でさ。
現ちゃん目立ちたかったのか、信じられないような冗談言ったりさ、とんでもないホラ話とかしてたよな。
いつだったか、近視のレーザー手術を俺に勧めた事あったじゃん、その手術のお陰でもの凄く自分の視力が良くなったって。
下北沢のビルの上から調布駅の看板と花壇が見えたとかさ。
ほんとに花が好きだったよな、花柄のポール・スミスのシャツ着てカッコばっかりつけてたけど、
スタジオでしょっちゅう食べ物こぼしてシミつけたりしてヘマばかりしてたよな。あわててシミ抜きしたりして。
それがいつも滑稽でさ、みんなから『かっこわるー』とか言われてたじゃん。

でもさ、最後の現ちゃんはほんとにかっこ良かった。
1年半の間、信じられないくらい生き抜く努力をしたよな。
ちとせのスタジオにも何度が通いつめて作品を仕上げようとしてくれたじゃん。

病院でも絶対弱音を吐かなかったし見舞いに幾度、いつもと変わらぬつまらねえ冗談でオレをもてなしてくれたじゃん。
一度も痛いって言わなかった。あきらめない、望みを捨てない最後の最後までそれを貫いた。

レピッシュのマグミが告別式で言ったよね『現ちゃん、見事な死に様だよ』って。オレもそう思ったよ。
オレだったらジタバタして投げやりになって怖くて痛い痛いって、助けてくれって泣きわめいてたと思うよ。

火葬場で見た現ちゃんの骨は小さかったな。あの時思ったよ、『もったいない、あの才能が灰になったんだ』って。
『ワダツミの木』は日本中のみんなが知ってる。でも、現ちゃんのアルバム『コリアンドル』や『森の掟』『夕焼けロック』、『十秒後の世界』の事はまだそんなに知られてない。10年後、50年後、100年後、ずっとずっとキミの作品は残っているわけだからね、
いずれは上田現の事がもっともっと評価される日が来ると思うよ。
オレもまたキミが天才であった事をこれからも触れ回るよ。
もっともっとたくさんの人に聴いて欲しいし、キミの詩を読んでもらいたいからね。

この喪失感はなかなか埋まらないけどあんまり悲しまないようにするよ。
もうすぐ現ちゃんが大好きだった桜も咲くし、今日咲きほこる菜の花も見たしね。
まだキミとのやりかけの仕事もあるしそれを形にしたいと思ってるから。
きっと現ちゃんは彼岸の向こう側のお花畑の中かどっかで活動の場を見つけて夢中に飛び跳ねてるような気がする。

人生はメリーゴーラウンドみたいなもの、いずれ誰にもそれを降りる順番が回って来るわけでさ、
その時まで、上がったり下がったりを繰り返しながら、まぁ、オレは恥ずかしながらダラダラとやって行くよ。」

2008年3月9日午後5時15分 上田現 逝去
皆さんも彼の冥福を祈ってやってください。合掌。


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gian 2007年 皆さん、どうもありがとう!! 12/31 13:44
年の瀬になるといつも思う。なんでこの1年はこんなに早かったんだろうって。子供の頃、そして若い頃、時間の流れは何故あんなにゆったりとしていたのだろう。人は年齢を重ねるごと、時間が過ぎて行くのを早く感じてしまうのは何故だろう?若い頃より僕は今の方があくせくしてるんだろうか?心の余裕が無くなったんだろうか?人はいろいろ言う、10歳の子供の1年は人生の10分の1、50歳の人の1年は人生の50分の1。年齢を重ねるごとに1年が小さく、短く感じられるのはそのせいだとか。はたまた、若年齢の期間は細胞分裂も活発で肉体も成長時期にあるから、常に、それこそ毎秒、毎分、膨大なエネルギーを消費している。その一刻一刻を脳が、肉体が感じ取っているから積み重なる時間の流れを密度濃く長く感じられるのだと。衰え始めた肉体は細胞も活性化せずエネルギーもだらだら垂れ流している。動かない、動きのない自分に気がつかないからその分時間の密度を忘れてしまっている。ゆえに、気がついたら時間はいつのまにか脳を、肉体をすり抜けている。なんか、そんな説もある。人は自分が死ぬ時、人生ってあっと言う間だったなって思って目を閉じるんだろうか.....。まぁ、なんであれほんとに時間ってヤツは「あっ」っと言う間だ。オーガスタは今年で15年を迎えました。振り返れば最初の頃は随分、時が経つのが遅かったなって思えます。オーガスタ自身が若かったからしょう。で、いつのまにか気がついたら15年経ってたって感じかな。長くもあり短くもあり。結局、ここまでやって来れたのは素晴らしい未知の才能って「細胞」に巡り会い、その「細胞」が活性化出来るパワーを皆さんがくれた事、それが15年って歳月を導いてくれたんだなって思います。だから、16年目を踏み出す前に皆さんにお礼を言っておきたかったのです。時間が経つのは早いなぁ、なんて言ってる自分を反省しよう、そして老いる事無くこの先も素晴らしい才能、作品を世に送り出す為のパワー、皆さんからのそのパワーをこれからもエネルギーに換えて行こう。2008年も、その先もオーガスタは時間を濃密に使って行きたいと思います。なぜなら世間に於いて、まだまだうちのアーティス達の評価は僕が思うところまで到達してないからです。こんなもんじゃねえぞって感じ、日本の音楽シーンをひっくり返してやるぞって意気込んでた1992年のあの頃の気持ち、毎日が毎日が始まりだと言うその想い、未だ僕の意識は変わってないと思うからです。来年も頑張ります。良い年をお迎えください!!
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gian 山崎まさよし COVER ALL YO ! & HO ! 11/2 19:27
僕が最初に買ったビートルズのレコードは「プリーズ・ミスター・ポストマン」と言うシングル盤である。東芝のオデオン・レーベルのもので330円。それは小学校6年の夏休みの終わりだった。1964年の事である。ビートルズは1962年にイギリスでデビュー、1964年初頭アメリカに上陸してから世界的なバンドになり、その年日本でも彼らのレコードが発売された。ビートルズが世界中で巻き起こす騒動は社会現象としてニュース番組でも紹介されていたので、日本の音楽シーンは彼らの登場をどこか一種異様な感じでとらえていたと思う。僕は丁度、洋楽のポップ・ミュージックに興味を持ち始めた時期だった。これまで聴いた事の無いちょっと歪に思えるそのサウンド、つまり最初からビートルズの音楽をすんなり受け入れた訳では無かった。ちょっとやかましいアンサンブルとどこか不協に響く和音、そして男のくせにやたら甲高く叫ぶように歌う感じが僕にはちょっと居心地悪く聴こえたのだ。しかし毎日ラジオから流れてくるその魔法の様なサウンドにいつしか次第に僕は侵されて行った。最初に聴いた時の奇妙な感じはいつしか全くなくなり、僕は毎日彼らの音を探してはラジオのダイヤルをあちこち回していた。
ビートルズが日本でデビューして半年が経った夏休み最後の日、新学期前に僕は近所の小さなレコード店にいた。この時代はシングル盤が市場の中心で高額なアルバムはなかなか手が出せない代物だった。だから、東芝はリスナー向けに独自の編集でビートルズのシングル盤をやたらアルバムからリカットしていた。店内に並べられたビートルズのシングル盤、僕はどの曲を購入するべきか悩んでいた。ラジオでオン・エアされているビートルズ・ナンバーはどれもこれも僕を虜にしていた。選択肢が多すぎてタイトルを見ても溜め息しかでてこなかった。結局僕は「プリーズ・ミスター・ポストマン」を選んだ。ドラムのキックとハイハット、クラップとベース・ギターのリズム隊がウキウキするようなビートを刻み、そしてなんといってもビートルズ独特のボーカル&コーラスのせめぎ合いが実に美しくどこか切ない。フォー・コードが繰り返すシンプルなメロディー・ラインであっても、これまでのアメリカ発バブルガム・ミュージックのフォー・コード・チューンのものとは全く持って違っていた。
当時、ビートルズは自作自演、つまり自分たちのナンバーを自ら作詞作曲すると言う事がよく話題になっていた。僕は自分たちで曲を作ってしまうなんて凄いなってシングル盤についている曲解説を読みながら感心していた。
ところがこの「プリーズ・ミスター・ポストマン」、実はビートルズのオリジナルでは無かった。その後、僕はビートルズがかなりの数のカヴァーをレパートリーに加えている事を知る。初期のビートルズのアルバムは3割程度がカヴァー曲で埋められている。これらの楽曲はビートルズがアマチュア時代にステージで取り上げ好んで演奏していたものがほとんどである。アマチュア時代のビートルズも人の曲をカヴァーすることから始まった。
まず誰かの曲をコピーしてみることから始める、ギターを手にした人のほとんどがそうだ。ビートルズは自分たちが初期にカヴァーしていた曲をお手本に自分たちも曲作りを始め、やがて独自のオリジナルを完成させるに至る。
しかしながら、ビートルズが凄かったのはそのカヴァー曲の料理の仕方である。「プリーズ・ミスター・ポストマン」はマーヴェレッツが、「ツイスト&シャウト」はアイズリー・ブラザースが、「ロング・トール・サリー」はリトル・リチャードが、そして「ロックン・ロール・ミュージック」はチャック・ベリーがオリジナルである。ビートルズがカヴァーしたこれらの楽曲とオリジナルのアーティスト達のものを是非聴き較べてほしい。ビートルズの味付けのセンスにまず驚かされる。ビートルズはカヴァーであってもそのオリジナルを超えている。カヴァーにしてビートルズのものにしてしまっている。その曲の持つ「心」とでも言ったらいいのか、ビートルズはその魂までカヴァーしてしまっている。
アーティストがステージ上で先人の曲をカヴァーして披露する事はよくある。だが、ディスクにその作品を形として残すことは非常に勇気がいる。なぜならすでに完成されたものを一度壊す作業から始めなければいけない。オリジナルに忠実すぎては単なるコピーになりかねないし型破りに違ったアプローチをするならばオリジナルを冒涜すること無いように仕上げなければならない。人任せなアレンジや安易な選曲は避けるべきだ。繰り返して言うけどいかに魂まで理解してカヴァーするかが必要なのだと思う。

山崎まさよしと出会った頃、つまり彼が19歳か20歳の頃、僕が最初に聴いた彼のナンバーはカヴァー曲だった。
「トランジスタ・ラジオ」(RCサクセション)と「ユア・ソング」(エルトン・ジョン)。前者の曲のオリジナル・ヴァージョンは1980年に僕がディレクションしたものだ。忌野清志郎の独特の歌い方までコピーしないとこの曲は成立しない。だからそれまで誰がこの曲をカヴアーしても清志郎のコピーでしかなかった。ゆえにカヴァーしてまでディスクに残したアーティストを僕は知らないし聴く気すら起こらなかった。
だが、山崎まさよしの「トランジスタ・ラジオ」は違った。清志郎とはまったく別もので山崎まさよしのものになっていた。そして「ユア・ソング」、エルトン・ジョンのピアノにほぼ近いアレンジのギター。その入り組んだアルペジオが持つ響きとビートに吸い込まれるような恐ろしさを感じた。
海のものとも山のものともわからない山崎まさよしの出現はショックだった。
彼に出会った頃の僕の愉しみはふたつあった。ひとつは毎日のように持ってくる彼のオリジナルを聴くこと、その中には「中華料理」や「坂道のある街」「週末には食事をしよう」などのプロト・タイプが含まれていた。それらの作品が将来完成すること、その期待で僕は胸がときめいた。ふたつめはそんなオリジナル披露の合間、彼が奏でるカヴァー楽曲に耳を傾けること。彼がカヴァーすることによって先人のオリジナルの素晴らしさを再確認できたりしたからだ。この時期、ビートルズ・メドレーを彼とスタジオに籠って作った事がある。このメドレーの完成度は世界的レベルから見ても素晴らしい!!
実はこのメドレー作品を後年ポール・マッカートニーが聴き、それがきっかけで山崎とポールの対談(2002年)は決まったのだ。山崎まさよしはビートルズ同様にカヴァー曲であってもそれを自分のものにしてしまう。言うなればカヴァー・オリジナルである。僕が彼と出会って16年余、その頃の気持ちが甦るようなアルバムが2枚完成した。このアルバムには彼の音楽にかける情熱と才能のほとばしり、そして真摯で謙虚な姿勢が16年前のあの頃と変わる事無く存在している。彼がカヴァーすると言う作業は既成の名曲への貢献でもある、僕はそんな風に彼のカヴァー作品をいつも聴いて来た。彼がいかに音楽を大事にしリスペクトしているのか皆さんにも感じ取ってほしい。
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gian 元ちとせの神々しい2曲「あなたがここにいてほしい」「ミヨリの森」 9/10 18:05
今回はいつにもまして至極個人的に、しかも主観でこのダイアリーを書く。
僕の祖母は敬虔なクリスチャンで晩年まで教会に通っていた。たぶんカソリックだったと思う。
そんないきさつもあり小学生だったある時期、僕も日曜学校に通っては神父様が読む聖書物語に耳を傾けたりしていた。
まぁ、ほとんど真面目に聴いちゃいなかったけど。
そもそも、教会に行く本来の目的は日曜学校の午後に行われる少年野球チームの対抗試合に参加する事だった訳だし。

さて、それはともかく、夏休み、一人暮らしの祖母の家に孫達が集まると夕食の前、きまって僕らはお祈りを強いられた。
『今日も1日を終える、その事を神様に感謝しなさい』僕はその説教があまり理解出来ないものの、それでも祖母がお祈りを終えるまで薄目を開けたりしながら、従兄弟達ともどもその様子を静かにうかがっていた。
祖母より先に箸を持つ行為、それを僕等が躊躇していた理由は両手を合わせるその時の彼女の姿がいつもよりちょっと凛々しかったためだ。
普段は柔らかいラインの祖母の姿が突然シャキッとなる、その光景を今でもうっすらと僕は覚えている。

その時、彼女の閉じた瞼の向こう、その心には何が見えていたのだろう?
そこに宿る「存在」とはどんな姿をしていたのだろう?って最近よく考える。
そして晩年にさしかかった時、その「存在」に縋り、信じる事でやがて訪れる死への恐怖を彼女は実は回避していたんじゃないだろうか?
もしかすると亡くなる寸前まで続けた薬剤師の仕事を奉仕と考え、その「存在」の傍に行く際、自らが思う心の罪や苦痛が許され、そして解放されると信じていたのかもしれない。
彼女の口からその事を聴いたことはない。僕もあえて訊ねた記憶はない。
もう彼女が逝ってしまってから随分長い年月が過ぎた。
彼女の魂は本当はずっと孤独だったんじゃないだろうか?って時々答えの無い思いを抱く事がある。
折に触れそんな彼女の抱いていた「存在」への信仰と帰依とはどんなものたんだろうって考えてしまう。
だがその答えは今となってはどこにも無い。
たぶん、僕には彼女の見ていた心の中の「存在」を永遠に理解できないのだろうって思っていた。

この春、スタジオで岡本定義の作品「あなたがここにいてほしい」を元ちとせが歌った瞬間、「不思議ね」と歌われる冒頭のフレーズがずっと出せないでいた僕の心のどこかにあるその答えに突然触れたような気がした。
この歌詞に登場する「あなた」は「光り」のように暖かくて大きな存在を僕に想像させた。
その「光り」の前にいるすべての人間はその「光り」の子供で、その大きく温かな存在......「あなた」だけがこの世の罪人を許すことができる。
元ちとせが歌うこの歌は僕にそんな答えを導いた。

『何でもない日々の中にそれは見つかるものよ』........遠い日の食卓、そこでお祈りをする際、祖母が僕に言った言葉の答えはここにある。
『やがて声は歌になるのでしょう』......個である小さな呟きもいつか大きな言葉の旋律となって願いが届く日が来る。
祖母の心に見えていた「存在」もきっとこの歌で僕が感じる光りのような姿だったんじゃないだろうか?
病院のベッドの上で祖母が肉体的苦痛から解放される時その『長く暗い夜が明ける時』......きっと祖母はそこに「あなた」の存在を感じていたんだと思う。

はじめ歌詞を読んだだけでは気づかなかった。
だが、元ちとせの声には底知れない力がある。何度聴いても冒頭の「不思議ね」と言うその声に僕は涙ぐみそうになる。
繰り返して言う、そこに僕への答えがあるからだ。
かつてスガ シカオが元ちとせの声を「あれは神の声だ」と言った事を今更ながら思い出す。

歌は聴き手がそれぞれに解釈すれば良い、
だからこの歌を聴いた人が、そして僕がそれぞれの「あなた」の存在を思い描けば良いのだと思う。

さて、もう1曲「ミヨリの森」。
アニメの主題歌として書かれたものだがこの歌は「あなたがここにいてほしい」とは対極的な「その存在」を歌った内容に取れる。
森の木々に、地面に、風に、雨に、森羅万象、万物にその存在が宿っているというアニミズムな歌詞。
その歌詞と元ちとせの声はこの世の中の事象はすべて連鎖していると言う事を僕に教えてくれる。
この曲は元ちとせのインディーズ時代の名曲「精霊」と通じるものがある。
「ミヨリの森」の原作を読んだ時、すぐ頭に浮かんだのはこの「精霊」と言う楽曲であった。

「あなたがここにいてほしい」に存在する『それ』と「ミヨリの森」に存在する『それら』、どちらのその存在も僕に「魂はひとりぼっちではない、ミヨリ(身寄り)がある」と教えてくれる。
「この2曲って一神教と多神教がコンセプトになってるよね?」僕は岡本定義にノーテンキな質問をしてみた。「そう感じるのはちとせの声のせいじゃないですか?」岡本がポツリと呟いた。
岡本がどんな意識でこの2曲を元ちとせに与えたのかは知らない。
きっと彼女ならそのメッセージを伝えられると想定して作ったに違いない。
どうであれ僕にとってはとても神々しい(こうごうしい)2曲。
皆さんもこの2曲の中に生きていく上での何かが見つけられるかもしれません。
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gian オーガスタ・キャンプ2007で出会えたすべての人たちへ 7/31 13:40
オーガスタ・キャンプ 2007に御出でいただいた皆さん、長い時間お疲れさまでした。そしてありがとうございました。スガシカオのデビュ−10周年がメインテーマであった今年のオーガスタ・キャンプ、まだ東京は梅雨明け前だってのになんだか僕はもう夏が終わっちゃったような感傷的な気分で昨日1日を過ごしました。祭りのあとにやって来る静けさ、その感動の波がゆっくり僕の心の中に広がって行く、昨日はそんな1日でした。オーガスタのアーティスト達とすべてのうちのスタッフ陣、そして演出にまで参加してくれた会場の皆さん、心から感謝をしています。12年前、たった1本のカセット・テープが僕とスガを結びつけてくれました。スガと初めて出会った日、そんな小さな出会いがやがてこんな大きな出会いになろうとは想像もつきませんでした。音楽の力はやっぱり凄いんだなぁって、グッドウィル・ドームのバック・ステージから会場の皆さんを眺めながら僕は思いました。2007年7月29日、皆さんとの出会いを僕は一生忘れません。スガシカオもきっと同じ気持ちだと思います。
皆さん、本当に感動をありがとう!!
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gian いよいよ7月。 6/30 23:50
今年もあっという間に半分まで来てしまった。で、もう明日から7月。
7月と言えばオーガスタ・キャンプである。今年はスガ シカオ10周年と言う事もあり何か予測不可能な事がいろいろ起こりそうだ。
今年の初め杏子、山崎まさよし、COILの岡本定義、そして元ちとせと何かで集まって話をしていた時、彼等からオーガスタ・キャンプについてリクエストが出た。2007年のオーキャンはスガ10th Anniversary企画にしたい、と。そしてなんとしても「スガ シカオを泣かせる」と山崎まさよしは言った。杏子とちとせも「あのクールを装ったシカオをみんなで感動させてたじろがせてやろう」、真面目な岡本定義はとにかくうちのアーティスト達が一丸となって彼へのリスペクトをシカオ本人に伝えたい、なんかそんな話で盛り上がった。その後、ツアー中だったスキマスイッチやあらきゆうこを巻き込んでオーガスタ・アーティスト達主導型で今年のオーキャン企画は動き出した。この予測不可能な2007年7月29日を皆さん、是非楽しみにしていてください。そしてオーガスタのふたりの新人、長澤知之と秦基博!!このふたりの成長ぶりを是非とも期待していただきたい。きっと盛夏、今年は猛暑になると言われているので水分補給は忘れずに。オーキャン月間に入ったわけだし、今回はそんなわけで取りあえずうちのアーティスト達の近況を伝えておこう。
杏子とはこの前新曲のキー合わせをやった。今年はミュージカルの仕事がかなり入っている杏子だがスタジオでマイクに向かう彼女はやはり輝いている!
COILのふたり、佐藤洋介は長澤知之のアルバムを付きっきりでエンジニアリング。つい先日完成させた。以前,間宮工が洋介の「耳の良さ」は天才だと評したことがある。本当にその通りだと思う。今回、長澤のアルバム、そしてヒップ・ホップ・ジャンルでの新しい試み「マイクロン・スタッフ」というユニットに於いて洋介のサウンド・メイキング能力が発揮された。そしてサダこと岡本、彼は自身の作品作りとレコーディング、そしてちとせの次のシングル「あなたがここにいてほしい/ミヨリの森」を書き下ろしレコーディングにも立ち合ってくれた。2曲とも震えるくらい素晴らしいバラード!!神々しい仕上がりにとにかく大感動してしまった。あらためて岡本定義の才能に脱帽。
で、彼等が手がけているふたり、まずは長澤知之。先日スタートしたワンマン・ツアーの初日、オープニング・ナンバー「左巻きのゼンマイ」から僕は恥ずかしながら涙が溢れてしまった。そして「僕らの輝きを」や新曲「風を待つカーテン」、どの曲であれ彼の歌う姿になんでだ?ってくらいに泣けて来た。群れをなすことができず個である事を背負った哀しみ、それはきっと誰しもに共通する「孤独感」とでも言ったらいいのだろうか、その孤独感が彼の歌によって救われるような気がしたから僕は泣けたのかも。
そして救われると言ったら元ちとせの新曲「あなたがここにいてほしい」、僕はこの歌詞の「あなた」=「神様」と解釈して聴いている。やはり彼女の声、その包容力のある温度に触れると僕の罪も許されるような気がして来る。
新人,秦基博は新曲「鱗」のプロモーション行脚とアルバムに向けてのレコーディングというタフな日々。スタジオのスピーカーから流れて来る彼の声を聴いているとそのくやしいくらい素晴らしいその声に身動き出来なくなってしまう。時に鋼のように強く、時にガラスのように繊細な響き。これこそ生まれ持った天賦の声だ。
あらきゆうこ、彼女は現在コーネリアスのメンバーとして世界ツアーに出ている。7月1日、つまり明日はロンドン・ロイヤル・フェスティバル・ホールでライブ!!5月末に彼女がロンドンのクラブKOKOでギグを行った際、僕は観客席にいた。1500人の観客は熱狂の嵐だった。さしづめゆうこのドラミングのパワーにロンドナー達は圧倒されていた。ステージを降りたらキュート過ぎる普段の彼女である。この小さな女の子が世界的レベルの実力を持っている、そんなゆうこがオーガスタのアーティストである事を改めて僕は誇りに思った。
スキマスイッチはツアーが終わり少しの休暇と充電期間を終えて戻って来た。新曲「マリンスノウ」のリリースに合わせてプロモーション活動が始まったのだ。マリンスノウのレコーディングに顔を出したときシンタが白い歯を見せて笑った。「マリンスノウって良いタイトルでしょう?」そう、とても夏にふさわしい、蒼く冷たい静かな語感である。彼等の休暇中、あるコンサートでばったり卓弥に出くわした。休暇中とは言えやはり音楽から抜け出せないヤツなんだなって思った。別れ際、車の中から手を振る卓弥が輝いて見えた。4年前、オーガスタ・キャンプでサブ・ステージを努めていたスキマがこんなに大きく成長してくれたんだなって僕は去って行くテール・ランプを見送りながらしみじみそう思った。
そしてスガ シカオ、今年の彼は10周年と言う事で目まぐるしい程のスケジュールをこなしている。いつも忙し過ぎるって僕に不平を言うけど、彼は自ら進んでワーカホリックであることを望んでいる。常に精力的に作品を発表し、より多くの人にその作品を広めようとする。
そしてそんな多忙な合間を縫ってちゃんと後輩達のライブに顔を出し僕との食事に付き合う。気遣いと努力、そんな積み重ねの結果が彼の10年のキャリアである。そんなシカオに捧げるとも取れる2007年のオーガスタ・キャンプ、皆さんに会場でお会いできる事を楽しみにしています。

P.S. いけね、山崎のこと書くのを忘れてました。先週彼の家に行って来たらあいつはカレー作りに精を出してました(笑)自分のカレーをレトルトで出したいそうです。と言うのは半分くらい冗談?で。そう、皆さんにあっと驚く作品を秋にはお届けできると思います。
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gian マイクロン・スタッフについて!! 6/1 00:00
黒人音楽はプリミティブなブルースから流れて来た60年代ものが好きでタムラ・モータウンやその流れで70年代に突入して行くディスコ・サウンド、そしてスティービー・ワンダーあたりまでが僕の趣味範囲だった。プリンスやその後に登場するレニー・クラヴィッツあたりは別として80年代もののファッショナブルでどこか洗練された黒人音楽はどうも苦手だった。そんな中、好きではないけれどどこか気になったのが80年代NYで流行りはじめたラップと呼ばれるものだった。グランド・マスター・フラッシュのスクラッチは衝撃的だったしランDMCの出現はマイナーだったヒップ・ホップを一気にメジャー・シーンへ押し上げた。彼等はエアロスミスの「Walk This Way」をサンプリング、ロック界からも大いに注目を浴びる事となる。そして一気にそのジャンルが確立され、ミュージック・シーンでは突然現れたラップ・ミュージックの起源についてさまざまな諸説があふれた。1920年代のジャイブがその源であるとか、60年代、ロック・シーンに於いてすでにジミー・ヘンドリクスがやっていたとか、はたまたジョン・レノンのGive Peace A Chanceがその始まりだとか。ジミ・ヘンはボソボソ喋るように歌っていたし、レノンは変拍子で躓いて転ぶかのように歌っていたからその言葉のリズムがラップと言えなくもない。だいたいブルースやR&Bは黒人が喋るように歌っている音楽だった。
そして、それを取り入れた白人の代表格はローリング・ストーンズだ。もしかしたらストーンズがロック・シーンに於いて最初にラップを取り入れていたグループと言えるのかも。では、日本人アーティストで意識的にラップを取り入れた最初のアーティストは誰か?たぶん僕は佐野元春氏だと思う。80年代半ばエピック・ソニーの知り合いから「Complication shakedown」のサンプル音源を聴かせてもらった時はショックだった。そしていずれ日本語のラップ・ミュージックってジャンルが現れるのかなって、その時ぼんやりと何年か先の日本の音楽シーンを想像してみた。90年代に入ると日本語をうまくリズムにのっけてラップをやる若者達が増えた。ほんとに転がすように滑らかにビートに日本語をのっけている。うちの山崎まさよしの音楽にもある意味ラッパー的な要素がある。「Fat Mama」や「関係ない」なんて詞ののっけ方はそれに近いし「セロリ」では間奏部分で敢えてラップを披露している。スガシカオの「19才」のたたみかけるようなアフター・ビートなんかもそうだしCOILの「カウンセリング&メインテナンス」なんてのもそのノリに近い。で、昨年、ある事がきっかけで僕はマイクロン・スタッフっていうラップ・グループに出会った。最初彼等を聴いた時、ラップと言うよりロック・グループと言う印象の方が強かった。とにかくバンドとしてのアンサンブルが素晴らしいのだ。で、彼等を観に渋谷のライブ・ハウスに出かけた。ラップ・グループのライブの大半がカラオケやブレイク・ダンス、DJで成り立っている、もちろんこれらはすべてヒップ・ホップの要素であるから当然の事なのだけど、僕にはマイクロン・スタッフがロック・バンドに見えた。そのギター・テクニックもアレンジの音の積み重ねも聴いているうちにひょっとするとこれまでにないラップ?かもしれないと。彼等の音楽は70年
代後半に流行ったクロス・オーバー的な要素もあった。歌になっているパートはメロディアスだし垣間見えるKengoとGejiのギター・リフは実に巧みでそのコード・テンションの響きは計算され尽く
している。そしてボトムを支えるMuneyoshiのベースも強力にタイトだ。ボーカル兼ラッパーであるBingoとShigeのLow パートとHigh パートのハーモニー・バランス、どれをとっても彼等がR&B,ロックからフュージョンを中心とし、その他あらゆる音楽に精通しているのがよく判る。で、昨年からずっと暖めていた、いつ彼等を発表するかって。彼等が年明けから取り組んでいた楽曲が春先に仕上がり、僕はミニ・アルバム「25」としてリリースすることを快諾した。屋敷豪太プロデュースによる1曲目の「見る前に跳べ」は石橋をたたいて渡る若者達に着地地点を考えずまずは跳んでみよう、後戻りできない状態に自分を追い込んでこそ道は開け生きる意味がある、そして何十億分の一の可能性で受精した自分の生命の幸運を考えよう、つまりはその命を大切にしよう、というメッセージ・ソングである。続く「デイ・ドリーム・フリーター」はそのタイトルどうりフリーターの憂いを歌ったものである。この曲は1度と6度マイナー・の2コードのリフで進行するこの上なくシンプルだが哀愁感のある曲である。このパターンは古くはチャック・ベリーの「Come on」、そしてローリング・ストーンズの「I'm All Right」なんかで確認できる。彼等がいかに音楽をシンプルに聴かせるか熟知している証拠である。そして残りの3曲、「Pulp Fiction 」「STROBO」「Warning」の持つポップ・センスも是非聴いてみて欲しい。2〜5曲のMIXはCOILの佐藤洋介が担当している。マイクロン・スタッフが新しいオーガスタのジャンルになるかどうかは神のみぞ知るである。僕は常に新しい音楽に挑戦して行きたい。やはり僕はジャンルを超えて音楽が好きだから!!
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gian 長澤知之への手紙 4/30 19:27
最近、キミのライヴを見る事が多い。CDでキミの音に触れる事もしょっちゅうだ。で、いつも思うのだがやっぱりその破壊的に奇妙な声は一般的じゃないんだよなぁって。で、ちょっと今日はとりとめの無い事を書く。
今から40年近く前、オレは初めて忌野清志郎に出会った。TBSのヤング720って番組があってさ、そのオーディションで。オレもバンドでやっててその場所にいたのさ。TBSの会議室みたいなところ。オレが16才で清志郎が17才だった。なんかおとなしそうなヤツでさ、その雰囲気がどこか今の長澤に似てるんだよ。で、清志郎が歌い出した時にさ,いっぺんにその場の空気が変わったんだ。アコースティック・ギターが分解しちゃうんじゃないかってくらいにあいつはギターを掻きむしってた。発した声はお経のようにも聴こえたし能の謡いのようにも聴こえた。で、声はほんとにダミ声つーかさ、雑音みたいに響いた。その場にいたヤツはみんな顔をしかめてたよ。なんだよコイツって感じだった。まだ、少年だった分、その声はそれほど太くなかったからよけいにキンキンしてたよ。その頃,日本はフォーク・ブームだった。けっこうカレッジ・ポップスとか言われてた時代でさ、当り障りの無い優等生的なハーモニーとアンサンブルのものが多かったんだよ。で、オレはもともとそう言うのが好きじゃなくてさ、デビュー前の遠藤賢司とかタクトってところからインディーズでリリースされてたJACKSなんかを聴いてたんだよ。でもその日聴いた清志郎の声は彼等以上だった。だけどギターのテクニックやリズムの良さ、そして作品の素晴らしさが圧倒的な声に阻まれて一発では理解できなかったんだよ。それまでにそんな声のヤツ、そんな歌い方するヤツを観た事も聴いた事も無かったからね。でもさ、ずっとオレには心のどこかであいつの声と断片的な詩がひっかかっててさ、とうとうアマチュアだった彼等(RCサクセション)のライヴを観に行ったんだよ。客席はガラガラに空いてた。で、その時はじめて彼の持つ音楽性と言葉の凄さに触れたんだよ。でも,その時代の流れの中では清志郎は絶対受け入れられないだろうなって思ったよ。長澤の歌を初めて聴いた時さ、オレは同じ事を思ったんだよ。こりゃ、一般的じゃないや、売れないやって。でもさ、何度もでもさって言うけど、お前の持つロックな感性と言葉のセンスにはやっぱオレは唸っちゃうんだよ。いつだったか夜中にさ、メールくれたじゃん、「社長はオレにJ-POPやらせたいんですか?」って。J-POPって言葉自体嫌いだったからさ、そんな風にオレがフツーの音楽をキミに期待してるのかなって、そんな事と思うわけねえだろうってちょっとショックだったよ。日本の音楽シーンって呼び方が全然定まらないんだよ。その昔フォークて呼ばれてたものがニュー・ミュージックって言われて、で、いつのまにかJ-POPとかさ、誰が言いはじめたのか解らないけどなんかセンスないんだよ。あとは何でもかんでも和製とかつけたがるだろ?和製ファンクとかさ。長澤のメールに「J-POP」って文字を見つけた時またしても清志郎を思い出したよ。かつて清志郎がオレに言った事がある、「ニュー・ミュージックみたいなのはヤダよな」って。で、今年のはじめ、芝浦スタジオでセッションしてる清志郎に会ったら「J-POPみたいに聴こえたら嫌じゃん」ってあいつが喋ってるのを聴いて、またまたキミの事を思い出したよ。清志郎は既成の音楽シーンに迎合せず、そして流れに惑わされずデビューから10年くらいかかってやっと一般的になった。いや、まだ今でさえ一般的じゃないかも。長澤にも壊して行って欲しいんだよ、J-POPとか言われてるシーンを。PAPER STARって自ら言っちゃうところがかっこいいジャン。PAPER DRIVERみたいでさ。それでも歌って行く、それでもいつかは暴走してやるって感じでさ。
清志郎はまぎれも無く天才だと思う。長澤もまぎれも無く天才だよ。このまま何にもおもねることなく誠実に優しく照れながら繊細に、そして大胆に言い訳しないキミのその姿勢を貫いてくれ!!そして、清志郎よりは早く一般的になってくれよ。でも、一般的なんて裏を返せば俗物ってことかも、そこからかけ離れてるからキミも清志郎も素晴らしいのかも。
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gian 長澤知之と秦基博 3/31 14:36
長澤知之と秦基博。山崎まさよしとスガシカオの比較がかつてあったようにこの新人アーティスト二人にもそんな比較がついてまわる。同じ事務所だしデビュー時期も近いからなんとなく両者をそんな風に見てしまうのは仕方ない事なのかも知れない。どちらも好きだと言ってくれる人もいれば,どちらかに肩入れして一方は範疇外の人もいるだろう。オーガスタは何故同じ時期にバトルしてしまうかも知れないこの二人をデビューさせたのか?答えは至極簡単である。二人とも凄いと思ったからである。それしか言いようが無い。是非,長澤知之の「PAPER STAR」と秦基博の「僕らをつなぐもの」をセットで聴いて欲しい。そしてその後に「アレルギーの特効薬」と「CLOVER」をもう一度聴き較べて欲しい。まったく異なる二つの個性に改めて僕は溜め息をついてしまう。つまり感動しているのだ。いまから10年以上前にオーガスタが山崎まさよしとスガシカオをほぼ同時に世の中に送り出した自信と自惚れ、なんかその時と同じような感触を僕は今心の中に感じている。だから、長澤知之と秦基博、やがてこの二人が個々の位置を確立しているであろう、そんな10年後を僕は期待してしまうのだ。
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gian スガ シカオ 10周年 その 2(大阪城ホール、武道館 炎上!!) 2/28 18:20
2月18日、26日、27日。10th Anniversary Special Live,大阪城ホール、東京 日本武道館に御出でいただいた皆さん、この場を借りてお礼を言いたいと思います。ありがとうございました。
東京2日間のコンサート決行はインフルエンザに倒れたすぐ後と言う事もあり彼の体力がとても心配でした。最悪の場合僕の中には中止と言う選択もありました。しかしスガの気持ちの中にはいっさいこの選択は無かったようです。本人は弱気はいっさい見せませんでした。でも本当に彼が回復していたのか僕にはわかりません。ただ、やはり彼に取って特別なイベントだったのは言うまでもありません。勿論、デビュー以来10年間関わって来た僕にも感慨深いものがありました。そして今回、僕はあらためていろんな事を考えてしまいました。スガ シカオは何か神様に試されているような、まるで試練を与えられているようなところがあるんじゃないだろうか?と。
振りかえって見ればデビューするまでの道のり、そして新人デビューに取ってはけしてふさわしくない年齢や環境、経験。その彼が背負っているリスクを乗り越えるかどうかをあの頃、神様が試したんじゃないだろうか?彼が逃げずにその道を選択した先に神様が彼のために言葉やメロディーを用意してくれていたんじゃないだろうか?って。「天賦の才能」って言葉があります。生まれつきその人が持っている才能です。その才能に気づいてもらうように神様はスガにまず素晴らしい声を与えたんだと思います。そしてその声を使う時にリズムを。スガがすべてを投げ打ってアーティストになろうと決心した時、神様が戻り道を消してしまったんじゃないのだろうか?だからスガは前に行くしか無かった。プレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、その先に待っている「才能」ってやつに邁進していったんじゃないだろうか?って。
僕と彼が出会った時、その試練を神様は僕にもほんの少しだけ与えたのだと思います。僕に諦めずにその廃棄処分になったテープの山をひとつ残らず全部聴きなさい、と。そしてその試練の最後の最後に神様がスガと僕の味方をしてくれたんじゃないのだろうか?って。それは多分、音楽の神様だと思います。スガが今回インフルエンザに倒れた事からの気力の回復もこの先見えない何かに進んでいくための試練の結果だったんじゃないかと僕は思ってしまいました。スガは物凄いライブを届けてくれました。これはきっと神様がずっとスガに音楽を続けて行け!!と言う事を試され、それにスガが答えを出したんじゃないのだろうか?だから彼は音楽の神様の使徒としてこれからも音楽を続けて行かなくちゃならない、あらためてそんな試練が待っている道を選んだんじゃないのでしょうか?
なんか今日の僕は変なことを言ってます。僕は無神論者ですし。ここ数日間の僕のまわりに、そしてその最も渦中の人であるスガ本人に起こった事、それがまるで夢のように思えるのは昨日のライブのあの興奮から僕がまだ目覚めてないからなのかもしれません。
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gian スガ シカオ デビュー10周年 1/31 19:40
早いもので1月も終わり明日から2月である。1997年2月26日、 スガ シカオは人知れず・・・・オーガスタとしては(といってもオーガスタのスタッフ4人、アーティスト2人の計6人)彼に大いなる期待を抱いて・・・・デビューした。その約1ヶ月前、山崎まさよしがリリースした「One more time One more chance」がチャート・インしたこともあり僕のテンションもどこか上がっていた。
それは山崎デビュー3年目のことであり、そして上京、東京での音楽活動を開始してから7年目の事であった。それはとても長い道のりだったけどアマチュアの時から暖めていた山崎の切り札「One more~」がブレイクするという事実は僕が信じていたものが形になったぞ!!って証明でもあった。だから杏子、山崎に続くオーガスタ第3のアーティスト スガ シカオのデビューも信じるものは救われる、いやきっと形になるという気持ちが強かったのだ。スガに出会ったのは山崎まさよしデビュー寸前だった。で、僕は少し混乱したのを覚えている。山崎まさよしがこれからスタートするという時にもう1人新人を抱えていいのかという迷いである。山崎の才能を世に知らしめるべく努力をしなきゃならない時、目の前に突然現れたスガ シカオなる得体の知れない新人。現役のサラリーマン、ライブの経験も学生の時ちょっとあっただけ、持ち曲も10曲に満たない、そして何よりも年齢が30にとどこうとしている。アーティストがデビューする上で不利な事ばかり、それが現状だった。でもやたら自信過剰でその自信を裏付けるようにその楽曲、そしてその声は僕には素晴らしかった。だが、山崎まさよしとスガ シカオ、こんなとてつもない才能が同時に僕の目の前にやって来るはずが無い、どこか僕は勘違いしているか見誤りをしていると自分に懐疑的になったのも確かだ。だから、最初スガ シカオの才能に早まるなって感じで自分を思いとどまらせようとした。まあ、実際はその時のオーガスタの台所事情からしてまたひとり抱えてしまっていいのか?ってのが本音だった。でも、その才能への確信が日に日に僕の心の中でゆっくり大きくなって行った。彼が持って来る楽曲は溜め息が出るほど毎回素晴らしく、僕は毎日毎日くりかえし彼の作品を聴いてはのめり込みこの男の声に魅了されて行った。「二兎追うもの一兎を得ず」っていうけど二兎追うもの二兎を得ても良いんじゃないかって思った。だから、山崎とスガ、両者ともその素晴らしい才能を信じようって結局自分に言い聞かせた。そして山崎に続きスガも僕の信じている事を形にしてくれた。
スガ シカオのベスト・ア ルバムを買ってくれた皆さん、どうか彼の他の作品も聴いて欲しい。彼の才能の凄さをより理解していただけるはずである。そして、僕は、僕らスタッフは、このベスト盤と彼の全作品を聴きかえしてみてまだまだ役不足だと反省し10周年を迎えよう!!スガの才能をまだ僕らは伝え切れてない。もっともっと多くの人の耳に届くように努力しなきゃいけない。だって彼の才能は音楽業界、世界的レベルから考えても希有な存在だと思うから。
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gian 2006年もありがとうございました。 12/29 21:01
音楽業界に入って30年になる。で、来年がオーガスタ設立15周年だから僕はその半分をオーガスタで過ごした事になる。オーガスタでの15年、様々なアーティスト、その才能と奇跡のような巡り合いを僕はした。それはスタッフにも言える事だ。出会いはいつも突然にやってくる。今この僕のダイアリーを読んでくれている人の中にこれから出会うべく人がいるかもしれない。そんな新たな才能との出会いを2007年にも期待しています。このダイアリーに来てくれる皆さんの2007年が素晴らしい年になる事を祈ってます。2007年、SUMMER OF LOVEから40周年。いつでも僕はこの先やってくるものに期待したい。
THE BEST IS YET TO COME
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gian 人生は短く、芸術は長く 11/30 19:55
いよいよ明日から12月だ。
年を取るにつれ日々の過ぎ行く早さが加速を増す。今月はうちのアーティスト達が全稼働していたので随分いろんなLIVEに足を運んだ。昨日は杏子のLIVE。ON-AIR-WEST。ここで杏子がLIVEを初めてやったのは確か1993年の12月だったと思う。あの時より昨日の方がより杏子はROCKしていたと思う。そしてずっと若々しく感じた。キャリアってのは時間を重ねることであってもその経験はよりその実力をブラッシュ・アップさせるものだ。輝くと言うのはそう言うことだ。晩年のピカソが「やっと子供のように絵を描けるようになった」と言った意味はそういうことかもしれない。
「人生は短く、芸術は長く」である。あの頃はまだオフィス オーガスタに正式に所属していたのは杏子だけだった。山崎まさよしはウロウロとうちの事務所に出入りしてはいたけど正式な契約には至ってなかった。まだオーガスタは彼を抱えられる余裕がなかったのだ。
あれから10数年、随分僕は素晴らしいアーティスト達と巡り会えたものだとしみじみ思う。もちろんスタッフにも。
山崎まさよしは弾き語りと言うLIVEの概念を根こそぎひっくり返してしまったと思う。誰も真似できない,追従不可能なオリジナルとテクニックで進化し続ける。スガシカオの歌詞のテーマは安易かつ保守的なJ-POPとか言う楽曲の中にはびこる日本語詩のマンネリをその声とリズムを武器にして打ち砕いた。その文学性とインテリジェンス溢れる歌詞、楽曲、COILはそれらを含めミックスに至るまでプロデュースすると言うスタイルを確立した。元ちとせの出現はこれまで海外からの洋楽に侵略され真似ごとで成り立っていたJ-POPなるものをこの国の内側から逆に侵略した。あらきゆうこはそのリズム、パワー、プレイにおいてこれまでの女性ドラマーと言う枠を遥かに超えてしまった。野狐禅は生々しいくらいの人間の本性、欲望や偽善、欺瞞、悲哀をそのパフォーマンスで曝け出す。歌のパンチだ。スキマスイッチはこれ以上ないくらいのPOPを装い、実は歌詞の、楽曲の、アレンジのなかにそのアイロニックな仕掛けを施す。11月29日リリース新作『夕風ブレンド』の作品群に潜む彼らの二面性的アイデアをじっくり読み取って欲しい。この個々の個性の集合体がオーガスタである。
さて、新人長澤知之、そして秦基博、君たちがこの先どのようにオリジナリティーを確立してくれるか期待する次第である。誰にも似ていない個性、これまで聴いたことのないような作品を世に知らしめてくれ!!
そして僕を大きく自惚れさせてくれ。(だってまだうちのアーティスト達の評価ってぜんぜん足りないよ、もっともっと評価されたっていいと思うぜ、こんなもんじゃない。日本の音楽業界をひっくりかえしたいのさ、まあだからオイラもそのために年を取ったとか言ってないでガンバロウ)
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gian 11月8日オーガスタ・レコード新人第2弾 秦基博 リリース 10/31 23:58
昨年の冬、うちの女性スタッフからとてつもなく素晴らしい声のアーティストに出会ったという報告があった。
なんでもライブ・ハウスに別件の仕事で赴いた際、その声に出会ったらしい。外に出て帰り際、その声はライブ・ハウスのドアの向こう側から聴こえて来たらしい。その時彼女が持ち帰った音源がオーガスタの中で瞬く間に広がり僕もその声を耳にすることになる。
まずは一発でその声に魅了されてしまったのだ。その鋼のように力強く、時にガラスのように繊細な声。全神経を集中するほど僕は聴き入ってしまった。で、それからすぐさまその新人が出演するというライブ情報を聞きつけ僕は何人かのうちのスタッフとともに横浜に向かった。

横浜のライブ・ハウスは神奈川県民ホールのすぐ近くにあった。横浜の想い出はなんと言っても山崎まさよしが重なる。まだ彼が海のものとも山のものとも解らなかったその時代、僕は当然のように山崎の音楽を信じて明日を夢見ていた。横浜のさまざまなくたびれたライブ・ハウス、そして紅葉坂の物憂い陽射しの中にひっそりと佇む彼の住まい。終電車の高架線から眺めた喧噪の中のどこか悲しい桜木町の明かり。その日、12月の冷たい浜風の中、そんな10数年前の光景がつい昨日の出来事のように僕の脳裏をかすめた。

ライブ・ハウスは閑散としていた。いくつかのアマチュア・ミュージシャンの後、その声の持ち主は登場した。
「秦基博です」静かな口調でマイクに向かう彼に拍手はまばらだった。しかし彼の歌い出したときの物怖じしない自信に満ちあふれた雰囲気は聴くものの耳を、そして目を釘付けにしてしまう力があった。観客の僕らが彼の雰囲気に呑まれ緊張してしまうほどだった。その声は僕がオーガスタで聴いた音源以上に心を震わせた。
たった30分のステージだった。でもそれで十分だった。初対面で僕はうちでやらないかと彼に言った。つまりオーガスタと契約しようって。

あれからまだ1年も経っていないのである。彼の作品をブラッシュ・アップすることを全速力で遂行した。とにかく早くその声を外に届けたかったから。この夏完成した彼のデビュー・シングルのサンプル音源はもの凄い勢いでリスナーを増やした。全国のメディアから問い合わせが殺到した。その結果が11月の電波に乗る。もうすぐ皆さんの耳に届くと思います。

11月8日デビュー・シングル「シンクロ」、秦基博の衝撃が全国区になると僕は信じて疑わない。
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gian 片岡は夏のにおい 9/30 23:52
これは野狐禅の竹原ピストルこと竹原和生がしたためたイラスト詩集のタイトルである。
この作品の原型(コピー)は文字も手書きでずっと以前からオーガスタのスタッフの間で回し読みされていた。
個性的で躍動感のある絵、そして駆け足のように過ぎて行く中学生の夏の毎日を綴った文章。
この作品群を読み終えた時、僕は置いて来た14才の夏を思い出した。
ハイロウズだったかな?確か「14才」って作品があったような気がする。14才で作家デビューしたユーミンも「私の感性みたいなものは14才の時に形成されて何も変わってない」みたいな事を語っていた記憶がある。

中学という新しい環境は小学生時代とは地域の異なる連中が集まり発育途上の僕らは肉体的にも精神的にもそれぞれ違いがあった。
相手の様子やその新しい社会の環境をうかがうような緊張した1年が過ぎ、中学校生活にも制服にも随分慣れ、そして高校受験まではまだ余裕がある、つい2年前までの快活で日が暮れるまで遊び続けた小学生時代の日々からさほど遠くなく、しかしなんとなくもう子供じゃないって意識し始め、社会の仕組みが少しずつ解り始めた、そんな時期、それが14才という時だった。

僕が14才になる夏、ビートルズが日本にやって来た。ビートルズの来日は社会現象にまで発展していた。今となっては信じられない話だがビートルズの是非を問う論議が繰り返されていた。それはビートルズを聴いている少年少女への弾圧そのものだった。その現象の渦中にいた僕は少なからず大人達に抵抗した。ビートルズのコンサートに行く事、その決断は14才少し前の僕にはもの凄い勇気のいる事だった。振り返れば懐かしく遠い夏。その黄金のような夏が今でも鮮やかに甦るのは、そんななんでもない、人にとってはどうでもいい事柄に僕が確かに純粋に必死の思いで夢中になっていたからかもしれない。
チケットを手に入れるために応募葉書を書き続けた放課後。当選したチケットを学校中のみんなに自慢した昼休み。その行動が校則違反だと教師に呼び出された職員室。ビートルズ公演に行く事を迷うそんな僕の背中を押してくれた同級生の少女。その少女に最後までありがとう、そして好きだという言葉がどうしても出てこなくてはぐらかしていたプール教室の日。盤がすり切れるくらい聴きこんでいた「ビートルズ」のファースト・アルバムをうっかり電車の網棚に置き忘れて失ってしまったあの夜の悔しさ。自転車のパンク直しを手伝って禁止されているミルクホールで友人にかき氷をおごらせた雲の高い日。女子バレーを覗いていた体育館裏のひんやりした地面の湿気。いきなり目を回して胸を締めつけられた苦い苦い初めてのハイライト。いつもただただ眺めてはため息をついていた楽器屋のショー・ウィンドウに飾られていたピカピカのエレキ・ギター。18才と偽って入館した映画館で補導された雷雨の午後。あの14才の日々はきっと過去のどこかで永遠に今も夏休みを続けているのかもしれない。

竹原の「片岡は夏のにおい」(幻冬舎刊)は誰しもの中にある、かつてのあの夏をやさしく揺さぶる。それは二度と帰らない、しかし永遠に生き続ける夏である。
いま全国ツアー中の野狐禅、彼らのコンサート会場の片隅に、そして書店にそっと並べられている「永遠の夏の書」を是非手に取って欲しい。
きっと君たちのあの夏の日に出会えるはずだから。
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